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​泰阜村ハンドクラフト記

泰阜村の手工芸
Yasuoka village Handicrafts

山峡工芸の最後の仕事


今年始めに販売を終了した山峡工芸ですが、最後の仕事が残っていました。

それは明日、「山峡工芸が泰阜村のために何をしたのか」を報告することです。

上の写真は、手書きでほほえましいほどの簡素さによる説明をしています。報告の一環です。

実際ほほえましい作業だったかどうかは、観る人によるところだと思います。

私個人的には、気楽な気持ちの草木染ではなかったと感じているところ。

でも絵で説明すると、気楽でほほえましく見えるものです。良いのか悪いのか。

さて、今回は山峡工芸の話をさせて下さい。ナレーターは山峡工芸の制作担当の私です。

長いので、暇つぶしが必要なときに読んで下さい。

山峡工芸は、村の紹介を考えて、2年前に生まれた仕事でした。

2年で閉じるのですから、よほど売れなかったのだろう、と同情されそうです。

それも当たらずとも遠からずですが、でもそんなに閑古鳥でもありませんでしたよ。

2年で閉じると知っていて行なった、草木染の袋物制作する工房の立ち上げは、

様々な絡みから始まりました。

3年前。村の紹介をし、村の地域力を事業に変えるという、そうした大まかな仕事内容を

3年の契約でトライするとして、県外から私ともう一人の女性がここに来ました。

私も彼女も全く他人ではありましたが、偶然同郷で気が合うところがありました。

しかしこの一年目に問題が多発し、私もですが彼女は仕事を失う可能性が発生しました。

問題について詳細は控えますが、これが大きく影響したきっかけの一つです。

彼女は悩んだ結果、村に豊富にある植物で草木染を始めることを提案しました。

実はそれまで草木染を行なったことのない人なので、それを聞いた時からしばらく、

私は自分には何が出来るのかをひたすら考えて過ごしたのを覚えています。

もちろん私も草木染については、知識しかない状態でした。

とはいえ、そのときの状況では実行するより他、仕事難を回避する方法もなく、

彼女と私は草木染をどう生かすか、とにかく行動しながら考えることになりました。

思い起こせばいろいろとありましたが、草木染とその布地を袋物にする、という形は

そうした流れで生まれました。何が発端になるか分からないものですね。

彼女は自分で言い出した草木染をするしかなかったし、

私はものづくりをする仕事で来ていたから、染めた布を仕立てるしかありませんでした。

でも困るばかりではなく幸運なことに、彼女は野外フィールドで学んだ経験のある人でした。

彼女の学びが思わぬ形で、草木染のスタートを支えました。

学生時に先生や同期と巡った野外の経験が、すんなりと泰阜村の山々を歩かせたのです。

私は彼女に同行して、マニアックな植物の本のページをめくる彼女を見ていました。

それにより更に驚いたのは、村の植物の種類の多さでした。

私たちには、この村に生きる壮大な自然がパトロンでついたというわけです。

この寛容で鷹揚な美しい自然は、四季を通じて(たとえ葉のない冬であっても!)、

小さな私たちの焦りや試行錯誤をどんな時も受け止めて答えをくれました。

短い期間に押し込むように紆余曲折ありました。

だけど全てが貴重な体験で、それらは決して買うことの出来ない値打ちある出来事でした。

山峡工芸を始めてから一年後、彼女は帰郷。

帰郷する際、私に草木染をある程度伝え、自分が染めたものを置いていってくれました。

私は残りの一年をどう過ごすか、彼女が帰った日も決まっていなかったと思います。

草木染をしながら制作もするなんて、とんでもなく時間がかかると知っていたからです。

だから最初は、草木染はしないで、村民の方から頂いた生地で制作を続けるつもりでした。

でも結局、私は草木染を行うことになりました。

彼女の帰った時期は初夏。緑が明るい勢いある時期です。

その美しさへの憧れに勝てず、私の惰性は初夏の前にひざまずくことになり、

そうして私も草木染を行い、時間はかかるものの、染め布を仕立てる一年になりました。

3年目は大変密度の高い一年でした。

これほど植物について感心を示した時間は、人生で初めてだったと思います。

そして草木染という古来からの伝統技法を身近にしたのも、大変価値ある時間です。

まだあります。村の人に幾度も助けてもらったことです。

制作している時間の長い私は、車を運転できないこともあり、人と関わらない仕事です。

でも植物を集めるとか運ぶとか、それには誰かに助けてもらわないとどうにも出来ない。

それを知って、何度も助けて下さった人が、それこそ何人もいて、

私は最後の年で初めてちゃんと村の人たちと関わったと分かりました。

私が草木染を行えたのは、ひとえに村の人が助けてくれたからでした。

山峡工芸は、村の紹介をするために作った工房です。

自生植物の色で作った袋物を販売して紹介を臨みました。

村を紹介することで、村の役に立つことが様々な形に繋がる、と、

そういった仕事内容を求めて行なったのです。

だけど実際はどうだったのでしょう。

実際は、村の人が、村の自然が、最後まで私たちを助けて育てて守ってくれたのです。

もうお別れの間際になって、それを私はしみじみ感じています。

山峡工芸自体は、泰阜村そのものに与えてもらった工房だったのです。

私たちは、村のために何か出来たのでしょうか?

地味な形で、メディアも嫌い、ひたすら小さな範囲での手仕事でした。

紹介という形は作品を通してしか行うことはできず、それは何かの役に立ったのかしらと。

山峡工芸の工房が空になった先日。自分たちのトライは最初からなかったようなもので、

村おこしどころか、自分たちが村に育てられて過ごしただけ、と感じました。

私は宝物を受け取りましたが、私が宝物を渡すことは出来なかったであろうと思うのです。

山峡工芸は契約終了と同時に終わりますが、

私は山峡工芸で行っていたことを、今後も少しずつ続けようと考えています。

それは満足いく形ではないかもしれないけれど、少しずつでも恩返しできたらと思います。

草木染も、袋物も、泰阜村の人の愉しみになるようにしたいです。

明日は村の一角で報告です。

わずかな報告時間です。私はたくさんの人の前で話すことが得意じゃないのです。

でもちゃんと報告して、ほほえましい絵を添えて、感謝の念を伝えます。

山峡工芸を助けて下さって、心から感謝します。ありがとうございました。

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